『瑠璃色金魚と花菖蒲』白石紬 歌詞考察 ~デラシネの唄~

ミリオン
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まえがき

本日でミリアニも本放送を終えました。

新曲,既存曲あわせて多くの楽曲が披露された最終話。ミリアニの魅力の一つ”ライブシーン”が存分に堪能できた回のはずです。副業中なので見れてないけど。

どの曲に触れようか悩ましい所ですが、今回は12話でも披露された『瑠璃色金魚と花菖蒲』について語っていこうと思う。

本当に美しい歌詞ですし、本当に素晴らしい描かれ方をしていたと思う。

🐊Warninng🐊

ミリアニのネタバレをゴリゴリ含みます。

それでも良ければ、最後までどうぞ。

 

輝きのこちら側

瑠璃色金魚と花菖蒲。

曲名にもなっている2人?を中心に物語が進んでいくんだけど、その関係性は終始一貫している。

瑠璃色金魚は恋焦がれる
凛と咲き誇る花菖蒲

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

金魚から花菖蒲への憧れ、という名の一方通行である。

「憧れ」という言葉に何を想うかは人それぞれでしょうが、私は“ポジティブなモノ”を連想する。「キラキラしてる」とかそんなカンジ。

だけど、私はこの曲にそれを感じない。
むしろ、その真逆。

ラムシーニ氏作の攻撃的なテクノサウンドも相まって、「憧れ」という言葉の持つ”ネガティブ”ばかりが浮き彫りになる。そんな楽曲だ。

決してあなたの心に
届かないの

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

そのネガティブの原因を考えると、前述の直後に謳われているこのフレーズ。どうしたって届きやしない「憧れとの距離感」に由来していることが分かる。

その距離感は歌詞だけでも十分に伝わってくるんだけど、金魚の置かれている情景を考えてみると分かりやすい。

文字ではよく分かんなかったので下手なりに絵を描いてみました。上手くはないけど丁寧には書いたので許して。

歌詞に散りばめられたフレーズを紡ぎ合わせると、私の中ではこんな情景。

順番に解説していきましょう。

 

「今も青く棚引いている」
「曇った硝子」

金魚と花菖蒲。
その2人の間には明確に一線引かれていることが、ここら辺のフレーズから連想できる。本曲の主人公が金魚であることを加味すると、青く棚引く”水面”とその環境を作りだす”水槽”。

金魚鉢のような”箱庭”を想像してしまう。

「雨は空に落ち 愛すれば消えるものと思ってた」

金魚が見上げる水面。
そこに浮かぶ空。
只中に凛と佇む花菖蒲。

その姿を仰いでは手(ヒレ?)を伸ばすんだけど、それは叶わぬ夢。雨粒が水面を揺らすように、触れれば消えゆく虚像でしかない。

「吐き出す空気は泡の模様」という頭サビのフレーズにもあるように、金魚から発せられるものは何一つ花菖蒲に届かない。すべてはこの水面で消え去る運命にある。

この「水面」が、楽曲中ではかなり重要なギミックになってると思う。

 

ザっと私の解釈を説明すると、こんなカンジ。
そして、それを要約すると以下の通りだ。

金魚と花菖蒲。

両者の住む世界は違っていて、
金魚から視える花菖蒲は雲の上の存在
手を伸ばせど決して届かぬ高嶺の花

それが言外で描かれている
「金魚と花菖蒲の距離感」という訳である。

 

美しすぎるな、この情景設定。
中村彼方、恐るべし。

情景を整理してみると「憧れ、理想」の意味合いで日常的に聞く慣用句で、なんとも鮮やかに”距離感の遠さ”が表現できる。

こんだけキレイに浮かび上がるんだから意図したものなんだろうけど、改めて作詞家さんの深淵は計り知れないね。本当に綺麗な歌詞の世界観だと思う。

フツーに聴いてても「距離感の遠さ」は伝わるんだけど、解釈に工夫を凝らすと綺麗な心象風景が広がっている。

なんとも紬らしいめんどくささ奥ゆかしさだね。

ってなことを考えてると、そもそも『瑠璃色金魚と花菖蒲』という物語自体がそうだと思うんよね。

THE IDOLM@STER MILLION LIVE! THEATER DAYS Brand New Song(4)

紬のアイドル人生の原点は、幼少期にテレビで見た「アイドルへの憧れ」であることが『BNS』で描かれている。

それは幼かった紬にとって宝物だったはずなんだけど、年月を経るごとに「自分には分相応な夢だった」と諦めに傾いていった、ってのもこの直後のコマで描かれている。

そんな経緯があるもんで、紬がアイドルに抱く感情はどこかよそ行き。一線引きがち。

ましてや「自分がアイドルになっている」なんてのは絵空事に近い感覚で、それは今なお尾を引いてる。

タイムリーに投下されたメインコミュ第137話「さざ波を受けて飛べ」でも、そこら辺を深堀りしていましたね。

紬にとってアイドルとは、自分とは違うどこか遠い世界の住人。おとぎ話の類。

金魚鉢で揺蕩う金魚も。
液晶TVで泳ぎ回るアイドルも。
アイドルをしている自分も。

おそらく、紬の中でたいした違いはないんじゃないかと思う。

どれも「観賞用」で事足りてしまう、という意味で。

 

本曲が紬ソロ曲であることを鑑みると、

金魚=白石紬
花菖蒲=憧れの誰か

この比喩であろうことは想像に難くないけど、「アイドルになった自分」を「俯瞰で見ている自分」。

我がことと思えない
「夢見心地の距離感」

そんな意図もあったんじゃないかなーと、このタイトルに感じる。

 

ただ、1番で語られるこの”距離感”って自然発生したものではないんすよね。

灯した明かりは燃えないまま
今も青く棚引いている
曇った硝子を溶かすほどの
秘密 もしかして私 持ってますか

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

「憧れ」を「熱量」に変えられもせず、あまつさえ世界を隔てる「一線」の構築に利用している金魚自身の秘密主義のせいなんすよね。

 

輝きの狭間

そんな訳で1番では「自ら構築した箱庭の中でもがき苦しむ金魚」が描かれているんだけど、2番は少し、というか大胆に状況が変わる。 

は空に落ち 愛すれば消えるものと思ってた
鏡の世界に 逆さまに映った好奇心

湧き上がる思いを掬い上げては
砂糖漬けにして また飲み込むの

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

2番冒頭。
あんだけ外の世界に焦がれてた割に、何の描写もなく外の世界に飛び出してるんじゃないかと思うんですよね。

その主な理由は後述しますが、色々考えたらこうなった。ここの「空から落ちる雨」「湧き上がる砂糖漬け(=飴)」のサイレント対比とかもそうじゃないかと思う。

 

ふつう「その一線超えるか否か」で物語作りそうなもんじゃないですか?

現に紬も参加してるこの曲とか、まさに『箱庭を打破する』。そんなメッセージ性の楽曲だったじゃないですか?

1番の表裏で描いた悲哀の情景。
そのカタルシスを使わないのもったいないと思いません?

きっと、そういう楽曲にもできたんだろうし、私の解釈が間違ってるだけなのかもしれない。

だけど、そう聴こえてこないのは。

本曲において『一線越えるか否か』
そんなことは些事にすぎないんだろう。

ってのが私の受け取り方です。

 

輝きの向こう側 

というのも、この曲で最も重要なのは”このフレーズ”に他ならないからだ。

目の前に見えるもの全てが
現実ってことはないの

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

2番サビで謳われる金魚の気づき。これを境に、この物語の視え方は変わる。個人的に鳥肌立つほど感動したのはこのフレーズ直後の落ちサビ部分である。

 

先述のとおり、本曲に感じるのは「憧れの負の側面」。悲壮感しか感じない楽曲だけど、それはそのまま「金魚が抱く憧れの大きさ」を表してる。

金魚にとっての花菖蒲は、いつかなりたい自分の姿。憧れの最上級。神か何かそれ以上。それくらいの羨望を抱いてて、そこに届かないからこれだけ悲痛な声で叫び上げてる。

「あばたもえくぼ」という言葉が真とすれば、花菖蒲を全肯定してそうなもんだと思うんよ。

私 あなたのようになれたら
もっと美しく咲き誇れますか

『瑠璃色金魚と花菖蒲』

そんな金魚が「咲き誇れること」を疑問形にしてるの、少しおかしいと思いません?

別に日本語として破綻はない。

歌詞に触れてみて”金魚の自己肯定感の低さ”は想像に容易い。

「ウチなんかがアナタのようになれたところで……」

そんくらいの卑下のセリフを吐きそうだし、実際にミリアニ以前に違和感なく聴いてたんだからそう受け取るのが自然だとさえ思える。

 だけど、
「あなたのようになれたら」という仮定のおかげで、ここでは「私=あなた」の等式が成立してる訳です。

だとすれば、この金魚が”咲き誇れること”に憂いを感じる必要はないじゃないですか。

だって、憧れとの乖離が“ゼロ距離”になったと仮定しているんだから。

だとすれば、このパートは肯定的なニュアンスなるべきだと思うんよ。

「咲き誇れますか」ではなく「咲き誇れるはず」とか、そんな前向きな推量の言葉になるのが自然だと思うんよ。

金魚が思い描く憧れは、いつだって咲き誇ってなくちゃおかしいんよ。

 

そんなことを考えてはモヤモヤしてたけど、このパートには”足りていないモノ”がある。

『目の前に見えるもの全てが 現実ってことはないの』

この落ちサビ部分を、本曲のキラーフレーズ越しに見てみよう。すると、なんとも鮮やかに意味の通る文章になるんじゃないだろうか。

私 あなたのように
(強く根を張るように)なれたら
もっと美しく咲き誇れますか

このパートで金魚は「凛と咲き誇る花菖蒲」。
その”花びら”にもはや目を向けていない。

想いを馳せているのは「凛と佇んだ花菖蒲」を支えている土台。地中深くに強靭に張り巡らせてるであろう「強く張った根」の存在だ。

この「咲き誇れますか」という疑問形。
実は「咲き誇るという行為」に掛かったものではなく、決して見ること叶わぬ「根の不明瞭さに掛かったものなんすね。 

 

僕みたいな凡人が仮に作詞をしたら、おそらくこういう表現は出てこん。言葉を並べて飾り立てる。「ギブユーメタファー」の発想にしかならない。

だけど、このアプローチは違うんすね。

“根”をテーマにした楽曲で、
“根”を強調したいために、
あえて「根を描かない」

 

フツーそんなことできひんやん。
この歌詞マジで天才じゃない?

 

日本には”枯山水”という庭園様式があります。
水を使わないで水を表現する、そこに想いを巡らすことに”侘び寂び”があるんだ的なヤツです。日本古来のそういう美的感覚のことを「引き算の美学」なんて言ったりしますね。

本曲はまさにそうなんよ。

冒頭の情景設定もそうだし、意図的に”根”の存在を省いてる歌詞もそう。どっかで出てきたサイレント対比だってそう。

この曲は“引き算”で構成されてるし、引き算で引いたものの方が美しいとさえ思える。

書いてある言葉を紡いでも綺麗な世界観の歌詞だけど、書かれていない”コト”に想いを馳せると鮮明に”言葉”が浮かび上がる。そんなギミックを有した楽曲なんだ。

さすが、趣味が「庭園」なだけあるわ。
和の神髄詰まっとるでな。


この曲が2番でやけにあっさり一線超えたのも、当然の成り行きだとおもんすよね。

この金魚にとって、一線超えるか否か。
そんなことはどうでもいいんです。

誰の目にも見える”行為や結果”。
艶やかに咲く”花びら”にこの金魚は憧れてなんかいない。

この金魚が焦がれるのは、そこに至るための過程。決して日の目を見ない”根の部分”だ。

本曲は、他者に一線引きがちな金魚だから。
さかしまの言葉を吐きがちな金魚だから気づけた、気付きの唄。

「結果に至るための過程」にスポットライトを当てた『照らし根の唄』なんだ。

輝きのさらに向こう側

(o・∇・o)<歌詞考察、終わりだよ〜

 

と言いたい所なんですが、ここまでは前置き。ここからが本編である。

この記事で一番伝えたかったのは

ミリアニでの『瑠璃色金魚と花菖蒲』の使い方、あまりにも美しすぎんか?

というただの感想。

ここまで読んだ方は最後まで見てやって下さい。前置きと本編の分量間違えてるのですぐ終わるから。

 

本日放送されたばかりなので記憶に新しいかとは思いますが、ざっと本曲が披露された経緯を書いときます。

こけら落とし公演も順調に進行し、みな一様に手応えを感じている中で起こった『Sentimental Venus』での音響トラブル。

曲中はなんとかアドリブで乗り切ったものの、機材復旧の目処は立たず「中止」の文字がよぎる一同。

未来やプロデューサーも解決に向けてそれぞれ奔走する中、降って湧いて出てきたのは客先からのペンライトとクラップ。

会場全体で繋がれたバトンを受け取った末に

「ウチが繋がんと…」

瞳に強い意志を宿すと共に、紬がステージへ向かう。

だいたいこんなカンジでしたね。

そう。

誰の目にもつかない「ステージの底」で、トラブルのために降りた「一面の赤い緞帳」を目の前に、緞帳を叩く「音と光」を受けて、「強い意志」を芽生えさせて、リフターに乗ってステージに「凛と佇む」訳です。

これって何かに似てると思いません?

 

それって、『瑠璃色金魚と花菖蒲』という物語そのものだと思うんですよね。 

楽曲になぞらえた「白石紬の成長物語」として、ここらへんの流れが本当に美しい。美しすぎるよ。

誰が考えたかは知らないけど、俺メチャクチャ鳥肌立ったもんね。まぁ、この思想の濃ゆさは”例のあの人”の仕業やろな~。

 

ねぇ… 出来ないのならやるな
だけど やれるのなら出来る

『DREAM』

私をアイマス沼に叩き落した魔曲のフレーズを引用するならば、あのグルグルしがちな家なきイキリ金魚が

「ウチが繋げてやらないと…」

明確に「やれる」と口にしたんだ。
出来ない訳がねぇ。
やっぱ、この金魚は自分のポテンシャル把握してねーな。

少し先を行く仲間から、だいぶ先を行く先輩から、この金魚はもう十分なものを持ってるはずだよ。

だって、そうでしょ?

 

『目の前に見えるもの全てが 現実ってことはないの』

 

花菖蒲に憧れてた金魚の背中にだって、もう立派な”花びら”がついてるじゃないか。

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