まえがき
14thライブの感想漁っててふと思った。
『君だけの欠片』で救われてるやつ多すぎひん?
もぅどいつもこいつも救われとる。『君だけの欠片』と「救われた」がだいたいセット。世が世なら宗教興っとる。
まぁでもよくわかる。だって僕も”救われた側”の一人だから。
なぜ『君だけの欠片』は人を救ってしまうのか?
いち信者として考えてみようと思う。
作詞・作曲:
藤本記子編曲:福富雅之
ナニカ
大勢が「救われた」ということは、大勢に訴えかける「ナニカ」があるということ。改めて歌詞を眺めてみて、なんとな~くそれらしい理由を見つけた。この曲は非常に
「代入させる力」
に優れている。ぼくが勝手に命名しただけです。好き勝手に呼んでください。
いまからその理由を“2つのレトリック”の観点から紹介する。
この曲がやたらめったら人を救うのはれっきとした”技巧”。救うべくして救う”神の御業”だ。救世はつくれる!
ではさっそく。
①換喩(メトニミー)
たとえば1サビ前。
どんな時も 前だけを見つめてる
その瞳が かすかに揺れている
ここで用いられる「その瞳=君」の代名詞的表現。これを「換喩」という。
詳しいことは調べてほしいんだけど、換喩には”視覚をなぞらせることで思考を辿らせる”って効果がある。ようするに「作中人物の追体験をさせる」といったダイナミックな文章表現なのだ。
最初の文章で考えてみよう。
「その瞳がかすかに揺れている」という文章は言ってしまえば「君の不安感」の表れだ。……が、ここではそれを明言しない。あくまで「瞳が揺れている」の作中人物の視え方だけが陳列される。
するとどうだろう。前後の文脈や楽曲の雰囲気なんかを総動員して、そこに一つの”ストーリー”をつくってしまいません?
その瞳が揺れている理由とか、「かすか」って書いてるくせに全然「かすか」じゃなさそなトコとか、君の気丈そなトコと私の引っ込み思案そなトコとか、2人の関係値の尊さとか。
なんなら、カラスの鳴き声、帰宅ラッシュのせわしい環境音、どっかの家の晩御飯の匂い…みたいなどうでもいいとこまでぶらさがってくる。
書かないことで”書かす”
リスナーの想像力を借りて、よりドラマチックな世界を仕立て上げるのが「換喩」の強み。作詞家さん的には”省エネ”な技法といえるかもしれない。
特にこの文章は強い拍音とも重なっている。言葉と音が一体となって畳みかけてくることで、一層の没入感を促してんじゃないだろうかと。
てか「夕方」がそもそも換喩的な時間なのかもしれないね。エモい曲ってだいたい夕方じゃん?朝ほど鮮明でもなく、かと言って夜ほど不明瞭でもない。夕方は、人を作家にさせるのです。
②諷喩(アレゴリー)
ある物語に”他意や真意”を隠すレトリックを「諷喩」と呼ぶ。なんとなく察しがつくと思うけど、「諷刺」がその代表例だ。
本曲はパッと見「2人の物語」である。
“私と君”のやり取りをメインとした友愛の物語。そう捉えて何ら違和感はないし、ソロ披露と同じくらいデュオ披露も多い曲だ。そう魅せたい意図もあるだろう。
しかし、(ぼく含め)救われている多くの方々は、この曲を”友愛”とは思っていないはずだ。おそらくは自分に向けられたような親近感を感じているはず。
解釈を強要するわけではないが、本曲の真意は「自己肯定」あるいは「自己対話」だ。『君だけの欠片』なんて他人行儀な名前のくせしてね。
この乖離こそが「諷喩」だ。
この曲に限った話じゃないが、いわゆる「内省ソング」って「2人の構造」が多用される。ミリオンが誇るヘビー級チャンピオン田中琴葉さんのソロ曲だってそう。やっぱり”私と君”。大人数でも単騎でもなく”2人”。
それは何故かといったら「一定の大衆性・エンタメ性を担保」するためだ。
「内省」とか「自己○○」ってマジメに語るとすんごいスピリチュアル。ようは胡散臭い。啓蒙じみてる。そうならないために、あえて抽象度を下げて(=具体化させて)、エンタメ度を高めてるってカンジ。
『君だけの欠片』に救われている人間がいかに多いといえど、『君だけの欠片』そのものには胡散臭さは漂っていない。それは偏に「2人の物語」というカバーストーリーがしっかり機能しているからだ。
だからこそ、何かのきっかけで「もう一つのメッセージ」に気づいた瞬間、たまらず喰らってまうわけです。ノーマルなポップコーン食べてたらキャラメルのポップコーンもナンボか混入してたようなお得感があるわけ。
代入させる力
「換喩」その他もろもろの条件によって”私と君の物語”に没入させられて、「諷喩」によって自分事にすり替えさせられるサプライズ要素もある。
僕が本曲の魅力を「代入させる力」と呼びたいのはそういうトコ。
「エモい」とか「共感」って言葉とはまるでちがう奇術性。ガワはそのままに中身を一瞬で入れ替えるマジックのような鮮やかさが本曲の醍醐味だと思ってんです。
おそらく本曲で「救われた/救われなかった」を分かつのは、この曲の中に「自分を見たか/否か」の差だ。んでそれは曲の理解度とかってハナシじゃない。ただの偶然。おかれた環境によりけり。
自分語りになるけど、僕は「7th」で信者になったクチ。
いまでもよく覚えてる。2サビ前の諏訪ちゃんの涙に「あ~演者さんもしんどい時代なんだね~」って感情移入した瞬間だったよ。この曲に”知らない自分”を見たのは。
思うにコロナ禍に疲れてたんだ。無駄に労力かかるだけで見返りはないこととか、みんなが苦労しているからこそ軽率に弱音を吐けなかったこととか。
そういった我慢が無意識下に積もり積もって、たまたま諏訪ちゃんのせいで表出したんだ。「演者さんも~」の「も」に自分が含まれていることに気づいたわけ。
大丈夫 ずっと歩いてきた道
ちゃんと 今日へ 明日へ 続いてる
あきらめないことの大切さを
君が教えてくれたから
ここまで頑張れたよ
すると、あら不思議。
『君だけの欠片』は珠玉に化けた。
俺のための曲、としか思えなかったんだ。
僕がそうだったように、『君だけの欠片』は誰にだって刺さるポテンシャルを秘めている。
なぜなら、世界は「前だけを向いている人」が多数派だからだ。みんな先のことで手一杯で、なにかをすり減らしながら喰らい付いてる。
あとは気づくかどうかだ。
認められるかどうかだ。
その瞳が、かすかに、揺れていやしないか。
バロメーターとして
ぼくは定期的に「バロメーター曲」って話をするんだけど、この曲もだいぶ「バロメーター属性」ある。自分と対話する余裕はなくても、『君だけの欠片』聴く余裕くらいはあっていいはずだ。ふとした時に思い出してみてほしい。
結局、自分を慰めるのは自分だからね。ぜひパンツ脱いで『君だけの欠片』してほしい。
ってなわけで『君だけの欠片』が人を救ってしまう理由について考えてみた。
「『君だけの欠片』救済(された)者の会」の一員として、これからも布教活動に励んでいこうと思う。
みなさまにも『君だけの欠片』のご加護があらんことを。アーメン。




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